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HOI4/Stalin by TROTSKY/1

HOI4/Stalin by TROTSKY

初期動作の解説 first look

1936年はスターリンとソ連にとって一段と飛躍の年になった。スターリンは年初の挨拶で「生活が楽しくなった」と自賛した。
党幹部の生活は、なるほど、よくなったろう。ウォッカも飲めるしキャビアも食べれるようになった。
だが勤労者人民の生活は? 依然として前途は茫洋としていた。

スターリンは新憲法制定の準備を進めていた。追従者、エピゴーネン、転向者たちをかきあつめてつくったこの所謂スターリン憲法は、スターリンに大きな政治的自由をもたらした。
憲法は「共産党が唯一国家を指導する政党である」と規定していた。
スターリンの考えでは、ソ連において個人の栄光がはいりこむ余地はどこにもなく、集団主義こそが党の指し示す未来であった。

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このCollectivism(集産主義)の選択は一つの画期である。
スターリンは迫りくる世界戦争に向けて、既成の官僚的秩序を重視し、あらたに勃興していた新進の軍若手将校、科学者選良、そして社会主義的人民の役割を軽視した。
スターリンの個人的性格、すなわち理論や知性を軽蔑するという姿勢がここで如実にあらわれている。
しかし集産主義の選択は、英雄主義の選択に比べて利点がないわけではない。集産主義は凡庸な官僚たちに大きな安心を与える。前進を嫌い、停滞を喜ぶ大衆たちに受け入れられやすい。彼らをソ連国家に統合するためには、なるほど英雄主義よりも集産主義のほうがよいであろう。
また集産主義の選択は、指導者に大きな政治的自由をもたらす*1。集産主義の大規模公共事業は自然改造計画となってソ連で不足しているゴム資源を得ることにもつながるだろう。

この新憲法の示す路線によって体制はいっそう強化され、スターリンは得た政治的自由を軍の強化に費やそうと決意していた。
既成軍官僚の一員、トハチェフスキーの赤軍参謀総長への就任と、経済法の部分動員への移行がスターリンの選択だった。バターより銃剣が優先される。

しかし一方でスターリンはソ連の国内民生産業がブルジョワ先進国に比べてすこぶる劣っていることに気が付いていた。
そのため第二次五カ年計画では民需産業の建設が優先されていた。しかしそれがひとたび達成されると、スターリンは民需工場を軍需産業育成にすべて投入する軍事国家路線へ舵を切ったのだった。
研究枠増設が達成されると*2、スターリンはその枠を戦車開発に充てた。
BT、A32、T34と続く数年単位の長期研究計画がスタートした。戦車生産の国営企業はOKMO*3として組織された。

このようにしてスターリンの支配のあらゆる兆候が、国家の軍事化を指し示していた。
大量突撃ドクトリンの理論家の登用、部分動員経済への移行、軍需産業への転換、そして戦車開発の開始。
国際紛争の解決は暴力装置の強弱で決まると、正しくもスターリンは信じていたのである。
アメリカやイギリスで後退をつづける労働者階級の脆さが、スターリンのこうした見方を強めていた。
ドイツ、イタリア、そして極東の日本といったファシストの環はますますつよくソ連を締め上げていた。
フランスとスペインでは人民戦線内閣が成立したが、その基盤はすこぶる不安定だった。フランスの内閣は早晩瓦解するだろうし、スペインではフランコのクーデタが勃発した。

スターリンをとりまく国際環境は悪化の一途をたどっていた。

スペイン内戦 spanish civil war

スペインで人民戦線内閣にたいしてフランコ将軍がクーデタをおこすと、スペイン内戦はいっきょに国際紛争という様相を帯びた。

怠惰なブルジョワ世界は、フランコはブルジョワ秩序を守ろうとしていると感づいて、不干渉を決め込んだ。
イギリスやフランスは同調するようにソ連にもとめてきたが、スターリンは西側世界に強調せず、義勇軍を組織してスペインに派遣した。
国際緊張が高まる。ナチスドイツやファシストイタリアといったファシズム諸国はこれに対抗してフランコ側に義勇軍をおくりこみ、内戦は世界戦争の前哨戦となった。

スターリンが派遣した義勇軍はT26からなる軽戦車5個師団で、機動力に優れた足と歩兵のライフルをものともしない装甲が自慢の機甲軍団だった。
率いるはコーネフ将軍。生粋のスターリニストで、軍の既成官僚の一人であった。装甲戦持ちの四人の将軍の一人で*4、戦車の扱いには長けていた。
充足率の低い泥仕合にさっそうとあらわれたソ連の機甲軍団は、またたくまに戦況を一変させた。
コーネフは電撃戦によって敵首都ザラゴサを陥れ、ドイツ軍やイタリア軍とともにこちらの首都マドリッドに進撃してきたフランコ軍を徹底的に包囲殲滅した。
スターリンはこの有能な追従者の戦果を痛く喜び、コーネフは凱旋後も重要な機甲師団の将軍としてドイツとの戦争に従軍することになる。

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勝利。

スターリンが機甲師団の投入によってもぎとったこの戦果は、けっして小さくないものだった。
スターリンが現地のトロツキストや無政府主義者を排除してイベリア半島に打ち立てたこの独裁国家は、きたるべき戦争に際して報恩するであろうとスターリンは考えていた。
国際協調が犠牲にされ、イギリスやフランスとの協調路線が排除されたことはその後の世界政治の展開に少なくない痕跡をもたらす。
上昇した国際緊張はアメリカやイギリスの戦時動員をはやめ、ヒトラーの野望を挫く勢力はいつもよりもちょっとばかりはやく腰をあげる。

コーネフは凱旋将軍となったが、帰国した彼を待っていたのは赤軍大粛清だった。

大粛清 great purge

実際には国際ファシズムの環であったにもかかわらず、スターリンは病的にもそれをソ連が国際トロツキストによって脅かされていると考えていた。
スターリンは権力に執着し、少しでも分け前にあずかろうとして手を伸ばした子分たちをトロツキストによる挑戦と決めつけた。

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しかし、一連のモスクワ裁判で何か一貫した目的を独裁者の脳内に見出すのは困難である。
あるときはカリーニンやヴォロシーロフといったスターリニストと言ってさえよい旧友が犠牲になり、またあるときはロコソフスキーやワシレフスキーといった有能な若手軍人が犠牲になった。
赤軍首脳部がうけた被害は甚大で、四人の元帥のうち一人*5が粛清され、四人の装甲戦持ち将軍のうち二人*6が死に、四人の国防人民委員候補のうち二人*7が犠牲になった。

おそらく、死んだ者の長大なリストを作るよりも生き残った者のわずかな名簿を見たほうが物事をよく理解できるだろう。生き残った者--それはトハチェフスキーとエジョフである。

トハチェフスキーが生き残った理由は不可解である。
彼は政治的には不安定で、ヴォロシーロフやティモシェンコのようなスターリニストでは到底なかった。
彼がゲシュタポのスパイであるという中傷は絶えずモスクワで広められており、病的なスターリンがその噂にとびつかない理由はなかった。
だが彼は生き残った。

エジョフの場合は問題は単純である。
彼はNKVDの長官として大粛清の陣頭指揮を執り、パージの荒波を見事に泳ぎ切った。
「思った通りだ、敵はあらゆるところにいる!」これがエジョフを救った合言葉だった。
スターリンの猜疑心をうまくコントロールして、エジョフはNKVD長官の座を維持し続け、のち*8には政治顧問にさえ登用された。
スターリンは後年、同盟国の賓客に対してエジョフを「私のヒムラーです」と紹介したことが記録に残っている。

大粛清は赤軍の戦闘能力に甚大な影響を残した。
下士官の大多数が死んだために指揮統制値におそろしいデバフがかかることになった。
高級将校の大量死はドクトリン研究を停滞させた。

赤軍が血の海のなかで呻いているそのさなかに、ヒトラーは西でその野望を着々と実現しつつあった。

続く


*1 「集産主義」で政治力120が獲得でき、「自然改造」で政治力120が獲得できることを指す。
*2 集産主義ルートでは英雄主義ルートと同じく、「スターリン憲法」から数えて最速五番目に研究枠増設のNFがとれる。
*3 実験兵器計画局。Hard Attackにボーナスがある。
*4 ほかの三人はジューコフ、ロコソフスキー、ワシレフスキー。
*5 ヴォロシーロフ。
*6 ロコソフスキーとワシレフスキー。
*7 ティモシェンコとヴォロシーロフ
*8 1939年冬頃。

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